憎悪

個人の怒りだけで戦い続けることはできません。
大義だけでも戦い続けることはできません。

個人の怒りと大義、この2つの大きな柱が戦い続けることの支えです。

どんなに大義を求めても、個人の怒りを消すことはできません。

戦わないことは、戦いを止めることは、猥褻行為の加害者であるI口とセカンドハラスメント(セクハラの2次被害)の加害者のM下をノウノウと生きさせることになる。。。これだけは、絶対に許せない。。。


憎悪に満ちた自分自身を中々認めることはできませんでした。
このことを書くまで、時間がかかりました。

3年間の沈黙の間、M下がセカンドハラスメント(セクハラの2次被害)の加害者となった意識すらないことが堪らなく許せなかった。。。これが、偽りのない正直な気持ちです。


もちろん、この憎悪と許せない気持だけでは、戦うことを決めることはできなかったでしょう。

『次のために』という大義に魅せられたのでしょう。

戦わず憎悪に満ちた自分の醜い心に苦しむのなら、『次のために』戦いたい。。。
次の被害女性を出したくない。。。
被害女性が被害を『声』にすることがセカンドハラスメント(セクハラの2次被害)を覚悟しなければならないという社会の構図を変える。。。たとえ、成就されなくても、そのための活動の片隅にでも身を置きたい。。。


『怒りを理論に変える。』
怒りを理論に変えていく。。。ただ、それだけのことをしているだけ。。